元日に能登半島地震があり、今も余震と避難生活が続いている。
自分の人生が不調だと、地震を免れて生き残り、生活している事に対して、一種の罪悪感を感じる。
何故、生きていたかった人が死に、たいして生きていたいとも思えていない自分が生き残ったのか?哲学のようでもある。
よく言われるのが、「亡くなった人の分までしっかりと生きる必要がある」という考え方だ。
ニュースで被災地の報道を目にすると、自分は家に住む事が出来ていて、食事も出来て、水も使えて、寒くないという事が、とてもありがたいと同時に、とても申し訳なく思えて、目を背けたくなる。
募金での支援も考えたが、自分の人生も苦しい状況と、些細な金額で意味があるのか?まずは生活物資が必要ではないのか?どこに募金すれば良いのか?などなど、自問自答と躊躇を繰り返している。
正直なところ、被災を免れてホッとしている自分もいる。
ウクライナへのロシアの軍事侵攻のニュースも、本音では他人事として見ていた。
少なくとも、目を背けずに関心を持ち続ける事は今の自分に出来る事だと考えている。
アインシュタインも「どうして自分を責めるんですか?必要な時は他人が責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と残している。
自分が生き残っている事を自罰的に思い過ぎず、自分に出来る事を、偽善だと思っても続けていく事、今回の出来事と感じた気持ちを活かしていく事が大切だと考えている。
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